2014/5/1
前回お話ししたとおり、この町で初めて日本人がビジネスを起こしたのは1884年のカフェ「かめレストラン」だったわけですが、このカフェの開店を機に25件世帯ほどの日本人移民が移り住み、次第に日本人の割合が増えてきました。
さらに1906年4月18日のサンフランシスコ大地震により、職や家をなくした多くの人々がサンフランシスコから移動してきました。もちろん中にはこの新しいロサンゼルスの日本人町を頼りに移住してくる日本人もいたわけで、自然とこの町でレストランやお風呂屋、マーケット、洗濯屋、ホテル、農業、水産業に従事する人々が増えてきました。この頃には「リトルベルリン」に代わり「リトル東京」という呼び名が完全に定着していたようです。当時からある企業や団体として、古い順から、Fugetsudo(1903)、Rafu Shimpo(1903)、Mary Knoll Japanese Catholic Center(1912)、Higashi Honganji(1916)などが記録として残っています。
1900年代のリトル東京は町も拡大し、旅館(ホテル)105軒、ハウスクリーニング78軒、理髪店65軒、洋食店36件、ベジタブルスタンド35軒、食品製造33軒、洗濯屋23軒、洋服屋23軒、和食13件、その他全部で約590のビジネスが存在しました。約400のビジネスがある現在と比較して、約48%も多かったのです。当時は高層の建築物が無かったことを考慮すれば、町自体が今よりもっと横に広がっていたものと想像できます。
さて、この時期に町として大きく成長したリトル東京ですが、実は1884年に初めて日本人がビジネスを始める前、1870年のUSセンサス(国政調査)に、日本人2人の記録が残っています。ロサンゼルス郡立博物館の歴史部によると、この2人は若松コロニー(サクラメント近郊日本人初の開拓団)の関係者であった可能性が高いようです。以降の国勢調査では、1910年には4,238人、1920年19,911人、1930年は35,390人と急増していますが、戦後の1950年の調査では36,761人とほとんど変化はありませんでした。なお、2000年の調査では、ロサンゼルス、オレンジ、リバーサイド各郡全体で155,956人の日本人、日系人が生活していると報告されています。
以上