2014/9/1
アトミック・カフェは1946年にヌードル・レストランとして開店、丁度、日系人が強制収容所から開放され、苦しいながらもリトル・トーキョーでそれぞれの生活の基盤を作ろうとしていたころです。 まず、サンペドロ通りに開店、しかし、強制立ち退きによりセカンド・ストリートとサンペドロ通りに移転、ところが、ウェラストリートの開発で再び立ち退きとなり、現在のファースト・ストリートとアラメダ通りの角に移転、当初は日系移民、日系退役軍人向けの料理を出していましたが、やがてこの店は70年から80年台にかけて大変な人気となり、若者の「溜り場」に変身しました。
当時のオーナーの娘さん(やがて、アトミック・ナンシーと呼ばれていたそうです!)が、店のイメージチェンジをして、ロスでもっとも「熱い」溜り場として、パンク・ロックをガンガン流し、ハリウッドのスター、政治家、そしてリトル東京、ボイルハイツの日系三世の若者達も入り浸っていたようです。
現在地下鉄工事を控える建物および当時の写真(右上) Photo: M. Okamoto
当時をアトミック・ナンシーさんに再現していただく Photo: Courtesy of Nancy Sekizawa
ロックスターのブロンディー, ゴーゴーズ(ちなみに女性ロック・グループで一世を風靡した彼女らのグループ名はアトミック・カフェの名物料理「ゴーゴーチキン」から取ったとか・・・), ディーヴォ、エックス、ディビッド・バイム、ボウイーとか、またアーティストのアンディー・ウォーホール も常連だったとか・・・。
しかも店内ではジュークボックスでパンク・ロックから森進一まで、さまざまな音楽が入り乱れ、タトゥーだらけの客に店員がテーブルをまたいで、あるいはテーブルの上に乗ってサーブしたとか、いろんな伝説が聴かれます。まさにハリウッド・カルチャーとリトル・トーキョー、ボイルハイツ文化の坩堝(るつぼ)といったところでした。
アトミック・カフェが開店した当時、ネオンの看板にはアトミックにちなんで原爆のきのこ雲の絵が描かれていました。 戦後、間もなくでもあったので、一部の人々からは被爆国日本に対してあまりにも無神経ではないかとの批判も出たようです。しかし、「我々は決して原爆を忘れてはいけない、そして当店の料理の味も忘れてはいけない!」と訴えたようです。しかし、当時を知る日本人からは、「きのこ雲」「ギャングが出入りする店」等、行ってはいけない店と噂されており、今日、当時若者だった日系三世の連中から楽しかったアトミック・カフェの話を聞くと、いかに日系人・日本人間でのコミュニケーションが無かったかを悔やまれます・
なお、このきのこ雲のネオン看板は今も全米日系人博物館の二階の奥の展示室でキラキラ光ってますので、是非お立ち寄りください。
全米日系人博物館にあるネオン看板 Photo: M. Okamoto
アトミック・カフェは、1989年の年末に閉店となり、オーナーも代わりトロイ、そしてセニョール・フィッシュとして生まれ変わったのは皆さんもご存知かと思います。メキシカン料理と中庭のある庶民的な店で朝から夜まで賑わってました。
さて、ここからが本題! リトルトーキョーに地下鉄が建設されることになり、その4年にわたるメトロとの交渉の中で、コミュニティーを分断させる地上走行案に反対し、地下の線路敷設案をコミュニティー一丸になって勝ち取ったのはお聞き及びかと思います。そしてその地下の駅の場所に決まったのがこのアトミックカフェ(今はセニョールフィッシュ)の敷地です。地下鉄利用の客が多く利用するようになっていたセニョール・フィッシュにとっては大変気の毒な話でした。
一方、この地下鉄計画(リージョナル・コネクター)は地下鉄ネットワークを中央で結ぶ大変重要なルート、すなわちロスアンゼルス東西南北の文化がこの駅にあつまり、ユニオンステーションにつぐ利用客数が期待される駅です。アトミック・カフェこそ無くなりましたが、そのレジェンドがこの駅に魂を吹き込んだようです。
もちろん、歴史的保存委員会も巻き込んで建物の保存等も検討され、また移設をしてくれる人には1ドルで売る・・・とのオファーもありましたが、どうしても「撤去」するしかなくなりました。「強制収容」も果たせなかったのです。
そこで、リトル東京コミュニティ協議会を中心に各団体が立ち上がり、メトロに対し「アトミック・カフェ」のレジェンドを残して欲しいとの嘆願書を出しました。そして、その結果、メトロの開発協定の中に、アトミック・カフェのレジェンドを保存するとの条件が認められました。
さて、そのレジェンドとは? これは現在コミュニティーとメトロが一緒になってアーティストも巻き込み、検討中です。地下鉄開通にはまだ5,6年かかると思いますが、このアトミック・カフェのレジェンドが期待される文化交流の場としてのリトル東京の起点であることを一人でも多くの人が覚えていてくれることを願ってます。