JBA 南カリフォルニア日系企業協会 - Japan Business Association of Southern California

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Maruichi American Corporation
President
森田 渉さん

1967年北海道旭川市生まれ。横浜国立大学卒業後、91年日商岩井に入社。98年、日商岩井アメリカ(現Metal One America)に赴任。2005年に帰国。06年にOregon Steel Mills(現EVRAZ)に転職。11年にはMaruichi American Corporationに転職し、現職。

「鉄」の道一筋 苦境の時代に挑む

大阪の鉄くず課からオレゴン州へ

総合商社の日商岩井に入ったのは、「総合」と言うからにはいろいろなことができそうだと思ったからなんです。私の父は仕事も趣味も音楽に関わる仕事で、ずっと音楽一筋なのですが、私自身はそうしたものがなく、いろいろやってみて何かを見つけなくちゃと。ところが現実の厳しいところと言うのか、最初の配属でその後も鉄に関わっていくことが決まっていたんですね(笑)。

配属先は鉄鋼、中でも特殊な業界である製鉄原料部鉄くず課でした。鉄くずは工場から出る物もありますが、大半は市中から出る廃材です。それを集める人や集積業者と、鉄くずを溶かす製鉄所の間に入っていたのが我々の部隊。鉄くず業界は強烈な個性のある場所で、しかも配属先は大阪でしたから、旭川から出て関東の大学を卒業したばかりの田舎者には衝撃的な経験でした。しかし関西はいったん受け入れてもらうと、他には行きたくなくなるような独特の吸引力がありますね。7年半勤務して、どっぷり大阪の人間になった98年、オレゴン州ポートランドにある日商岩井アメリカ鉄鋼部の駐在に。

初めての海外生活で、ポートランドがどんな場所かも知らなかったのですが、街中には川が流れ、近くにはフッド山がそびえていて、居心地の良い場所でした。海外勤務という意味では日本と考え方が違うなと思う部分もありましたが、それでも日商岩井アメリカは日系商社でしたから、本当の意味で日米の違いを感じたのは、その後、アメリカの会社に転職してからでした。

 

米国の鉄鋼会社に転職し日米の違いを実感

2005年にメタルワン(元・日商岩井)鉄鋼国際部に帰任。東京で働く日々は面白かったのですが、オレゴンに戻りたい気持ちもあり、06年にオレゴン州にあるOregon Steel Mills(現EVRAZ)に転職しました。最初はダウンタウンのオフィスに勤め、途中から工場内の事務所に。日本人が誰一人いない環境だったのはどちらのオフィスも同様でしたが、工場では会話の内容も違えば、使う言葉も全然違う。仕事の話をしていたかと思えばスポーツの話をしていて、雑学的な知識がないと会話についていけないし、主張していかないと話を聞いてさえもらえない。でも何とかしていくしかないですよね。言葉が足りなきゃ資料を作ったり、論理と数字で説明したり、持っている力を総動員しました。11年にMaruichi American Corp.に転職するまでの5年半に、かなり鍛えられました(笑)。

でもその時に出会った人たちが地元の鉄鋼会社の責任者になるなど、今その時のつながりが生きています。鉄鋼業界は1970年代から20年近く、鉄冷えの時代があったため、60歳前後の人材が手薄で、これまで要職を担って来た上の世代が引退していく今、業界を背負って立つのが私と同世代の40代後半から50代前半の同世代なんです。つまり構造的にも思考の上でも転換の時を迎えているとも言えますね。

しかしながら、鉄鋼業界は現在中国からの供給過多もあり、リーマンショック後と同等かそれ以上の苦境にあります。毎月、月次報告のたびに頭を抱えているような状態ですが、一方でここを乗り切れた会社は面白くなるはずなんです。今は一喜一憂せずとにかく耐えるしかない。たとえもうからない時があっても、意味のある損の仕方をちゃんとひとつひとつやっていくしかない。そんなふうに言い聞かせています。

大阪時代にはまったフライフィッシング。川のないLAではフライフィッシング代わりにゴルフに熱中。

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=Company Info=

Maruichi American Corporation◎溶接鋼管業界のトップメーカーとして高い評価を受ける、世界でも有数の総合鋼管メーカー、丸一鋼管グループの米国拠点。需要地生産体制で、同社は1980年から製造を開始した。

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