JBA 南カリフォルニア日系企業協会 - Japan Business Association of Southern California

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Roper

Freeman, Freeman & Smiley, LLP
弁護士(パートナー)
セオドール・J・ローパー さん

1951年青森生まれ、横浜育ち。69年に渡米し米国の大学に進学。79年、Golden Gate University of LawでJ.D.取得。会社法、契約、商法の専門弁護士として、長年日本企業を顧客として活動。2007、10、11年、南カリフォルニアスーパー弁護士に選ばれた。

子どもの頃の夢を叶えて 日米の架け橋として活躍中

日米の架け橋にと18歳で単身渡米

僕は父が米国人で、母が日本人のいわゆるハーフです。当時は今ほど普通にハーフがいる時代ではなく、まして企業の重役にハーフを見かけることもありませんでした。高校時代はグループサウンズ全盛期でしたから、僕もセミプロでバンドをしていて人気があったのですが、僕はプロになるよりも大学に行き、カタい仕事に就きたかった。でも当時はインターナショナルスクールを卒業すると行ける大学は上智かICUだけ。だったら米国籍なんだしアメリカを知ろうと、18歳で日本を離れ、単身渡米しました。

それに、ゆくゆくは日米の架け橋になって仕事がしたいとも思っていました。高校の頃から米軍基地でアルバイトをしていたのですが、言葉や文化の違いで米国人と日本人の間にさまざまな問題が起き、僕はハーフだからと間に立って調整することが多かったのです。こんな小さな違いでこれだけ問題が起きるなら、会社間ではもっと大きな問題が起きるんじゃないか…そう思ってビジネスを専攻しました。

ところが大学生のある日、国際弁護士と話していて、日本語ができる弁護士は米国にほとんどいないと聞いたんです。日英両語ができるビジネスマンでも需要があるのに、弁護士ならもっと楽に稼げるんじゃないかと、弁護士になろうと思ったんです(笑)。

弁護士の仕事は大変でしたが、天職だと思いました。働けば働くほど新しいことを覚えていくんです。いくら仕事をしても足りない、どうして1日は24時間しかないんだろうと思っていました。問題が解決するのはやりがいがありますし、誰かのしたいことを成し遂げるお手伝いをして感謝していただけるという満足感は何にも代え難いです。それに日米の架け橋になるという子どもの頃の夢が達成できたこともうれしいですね。

アメリカでの成功の秘訣は、アメリカのやり方で戦うこと

もっと日系企業を専門にしたいと、80年にサンフランシスコ近くの法律事務所からロサンゼルスの事務所に転職。その頃の日本企業は多くが輸入販売業が主で大きな訴訟はありませんでしたが、日本企業が成長していくと共に訴訟も増え、バブルの頃ともなると眠る時間もないほど忙しく仕事をしていました。バブルが弾けてからは撤退のお手伝いが多くなりましたが、今もお付き合いのあるお客様だともう30年以上になります。

近年は中小企業のアメリカ進出が増えていますね。日本語ができる弁護士は今も少ないので、声をかけていただくこともありますが、日本企業は米国の法的リスクを理解しないまま、日本の商習慣を持ち込もうとするケースが多々あります。話し合いでどうにかなると思ったり、契約書に問題が起きたら別途協議で定めるとしてしまったり。いざというときの解決を容易にするために、事前にきちんと契約書を作っておくことが大切だと口を酸っぱくして申し上げています。

日本の会社がアメリカで成功していくには、アメリカのやり方に慣れることが重要です。日本の会社は技術はあるし、いい物を作るのですがアピールする力が弱い。昔はいい物を安く作っていたわけで、 マーケティングもセールスもなくても、売れた。ところが今はいい物は作れても、安くは作れない。それをどうアピールして売っていくか、そこを頑張っていけば日本の会社はまだまだ世界にも通用しますよ。僕はこの自分の好きな仕事を通して、今後もそうした日本の方々のお力添えになれたらと思っています。

Roper san

高校時代は後のゴダイゴ等のメンバーらとバンドを組み、葉山マリーナなどでコンサートを開催

=Company Info=

Freeman, Freeman & Smiley, LLP◎1976年設立の弁護士事務所。Fortune 500社企業やベンチャー企業、個人までさまざまな顧客の不動産売買や、M & A、税金対策、雇用など多様な分野を法律面でサポートしている。

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