1952年千葉県生まれ。一橋大学経済学部では合唱団の指揮者としてクラブ活動に没頭。卒業後、鹿島建設入社。開発事業部門を経て、85年にミネソタ州ミネアポリスに赴任。98年よりロサンゼルス兼務となりロサンゼルスに転居。00年より現職。
鹿島の米国進出は1964年で、昨年50周年を迎えました。米国初のプロジェクトは、今、当社があるリトル東京の鹿島ビルの建設。当時、第二次世界大戦後に収容所から戻って来た日系人が土地を買い戻してリトル東京を再開発していたのですがあまり進んでおらず、ロサンゼルス市から「開発が進まないなら土地を収用する」と警告がありました。このままではリトル東京がなくなってしまうと、住友銀行さんのご協力を得て鹿島がこのビルを建設したのです。
市からのさらなる要請に応え、続いて日系企業30社でEast West Development Corporation(以下EWDC)を作り、ニューオータニとウェラーコートを開発したのですが、「日系人が必死で買い戻した土地を、日本企業が金儲けのために開発している」と一部の方からは反発を受けました。しかし実のところは、恥ずかしながら大赤字でした。私は04年にEWDCの社長に就任し、07年にEWDCプロジェクトを非日系の投資家に売却して会社を精算。すると今度は、「鹿島は日本人の魂を売った」と厳しい批判を受けました。もちろん「リトル東京は先人が苦労して作られた街で守っていかなければならない」とは思うのですが、荒廃してしまっては元も子もない。日本人だけが集まってやるのが良い時代でもないし、それよりも活気付いて夜も安全な街となった今の方が良いのではないかと思っています。
ロサンゼルスに転居した当初の98、99年はミネアポリスの大規模再開発事業、Riverplace Projectの現地責任者と、LAの兼務で両方の土地を行ったり来たり。当時のLAは大気汚染がひどくて参りましたが、一方で年中気候が良いなあと。ミネアポリスは「アメリカの冷凍庫」とニックネームがあるほど寒く、冬が終わると一気に夏が来るので2週間くらいであらゆる花が咲きます。それは見事ですよ。LAに来てビックリしたのはジャカランダの花。あんな紫の花は日本でもミネアポリスでも見たことがありません。これがLAだなあと思いました。
ミネアポリスに85年に赴任した時は実は3年の駐在予定でした。ところが同地の再開発事業の立て直しに想像以上に時間がかかり、結局13年。そこでアメリカ流のビジネスの仕方を学んでしまったので、日本流の会議なんてもうできません(笑)。
赴任当初は5歳と1歳だった息子も、今や35歳と30歳。通常の学校に加えて、飛び級の数学のクラスや日本語補習授業校にも通っていましたから苦労したかと思いますが「大変だね」なんて言うと安きに流れてしまうと一度も言ったことはありません。幸い妻も帰りたいと言ったことはありませんから、有難いことですね。米国では会社で友人を作ることもありませんし、簡単に相手を信じるわけにもいきません。だからこそ家族が非常に大切です。それは日米のどちらが良いというのでなく、理解していないとお互いが不幸になる違いでしょうね。
一方で、米国は日本のように細かく相手の気持ちを察する必要もなく、イエスはイエス、ノーはノーと極めて単純で楽です。自分の足で稼ぐタイプの人間でないと生き残れない土地ではありますが、30年も暮らしている理由の一つは、それが性に合っているからでしょう。米国暮らしが長く、つい思ったままを言って怒らせてしまうこともあるのですけれど(笑)。
=Company Info=
Kajima Development Corporation◎米国鹿島グループに属し、住宅および商業施設の開発を手がける。1979年に設立され、カリフォルニア、ワシントン及びアリゾナ州で開発を行う他、ロサンゼルス都市圏で商業施設を運営。