1967年、5歳の時に家族でシカゴへ。72年日本に帰国し1年半後に再渡米。81年に IIT-Chicago-Kent College of Law卒業後、大手弁護士事務所に勤務。92年にLAに転居し、94年から2001年まで独立して活躍。02年、増田・舟井法律事務所のLA進出と共に現職。
私が生まれたのは外交官だった父の赴任先のフィリピンでした。私は8人兄弟の4番目ですが、その後、父の赴任に伴い、オーストラリアやタイ、シカゴなど各地に転居しましたので、下の兄弟になるほど日本
語よりも英語が得意なようです。私は、日本で暮らしたのは5歳までの5年間と高校生の時の1年半で、アメリカ暮らしが長く、文化的にも言葉も日米が半々と言ったところです。しかし気持ちの面では、両親が日本語や日本文化を教えてくれたおかげで、日本が6割ですね。自分が日本人であることにはずっと誇りを持っています。
奥様、2人の娘さんと一緒に。「趣味は家族と言ってもいいですね」と影井さん |
でも実は17 歳で日本に戻った時、少しがっかりした経験があるのです。帰国前に住んでいたシカゴでは、5ベッドルームの家に暮らしていたのですが、日本に戻ったら8人兄弟に加えて両親、おば、祖母の大家族で3ベッドルーム1バス。朝のバスルームは大混雑でしたし、家の中は寒く、なかなか大変でした(笑)。それに外に出たら出たで、言葉や文化の問題がありましたしね。でもその1年半の日本暮らしのおかげで言葉も戻り、日本の生活や仕組みを理解できたと思います。何より、日本のサラリーマンがどれだけ一生懸命働いているか、この目で見て実感しました。今も、彼らの頑張りを思うと、日本を応援しなくてどうする、日本は絶対に負けちゃいけないと思うのです。
私が弁護士になった1981 年は、ちょうど日系企業がアメリカに投資を始めた頃でした。父のように外交官になるには私の言語や文化はあまりにアメリカ寄りでした。それなら外交でなくビジネスで日本を応援す
るのが良いだろうと思い、弁護士に。ロースクールを出て、シカゴの大手の弁護士事務所で主に金融関連の案件、特に邦銀をお手伝いさせていただきました。
92 年にロサンゼルスに転居し、94 年には独立。大手弁護士事務所の弁護士料はかなり高額ですので、できるだけリーズナブルな料金で多くの日系企業をお手伝したいと思ったのが独立した理由の一つでした。多くの日系の中小企業は、日米でビジネスをする際、言葉の問題は認識されていますが、文化的な問題はまだまだ理解しづらいものだと思います。例えば契約書は、アメリカでは契約書の文章から外れることは契約違反になりますが、日本人は契約書と少し違っても相談で解決できると思いがちです。それにアメリカ人は自分の意見を出してディベートしていくのが一般的ですが、対して日本人はつい遠慮や我慢をしがちです。そういった問題に関しては、日本の企業の考え方も分かりますから、日本の文化に則って丁寧に説明をするように心がけています。しかしアメリカでのビジネスや訴訟の場合、相手はアメリカ人ですから、仕事の時の私は完全にアメリカ人ですね。遠慮や我慢はなしです(笑)。
それに自分ではワークライフバランスもアメリカ人らしいつもりです。アメリカ人のワイフに聞いたら「全然」と言う可能性も十分ありますが、週末はできるだけ家族のために時間をセーブしています。娘2人が小さい頃はゴルフも全くしなかったくらい。最近になって、ようやく13 年ぶりに始めたんですよ。今後は日本企業をリーズナブルな形で応援できるように努めるのに加えて、ゴルフに、それからワイフと一緒にあちこち旅行ができたら良いなと思っています。
=Company Info=
Masuda, Funai, Eifert & Mitchell, Ltd.◎1929年の開設以来、ビジネスのあらゆる側面をサポートする総合法律事務所。2001年にロサンゼルス事務所設立。ロサンゼルス事務所では、日本語でのリーガルサービスも提供。