1965年大阪生まれ。同志社大学工学部卒業後の89年に稲畑産業株式会社に入社。電子材料関連の部署に所属。97〜2002年、台湾・新竹駐在。日本に帰国後、05〜07年にはシリコンバレー駐在。再び日本で勤務した後、13年に米国駐在となり現職。
1989年に稲畑産業株式会社に入社し、電子材料を扱う部署に配属されました。そこでは半導体を作るための材料や設備をアメリカのシリコンバレーから輸入し、日本国内のお客様に販売する仕事を担当。今、日本では半導体の生産は少なくなってしまいましたが、当時は世界で日本のシェアが50%を超えていたような全盛期でした。
日米間でのビジネスでは往々にしてあることですが、国ごとに考え方が違うため常にギャップが存在します。言葉よりも日米それぞれの思想を通訳するような立場で、若い私はベテランのサプライヤーとお客様の間で大変迷惑をおかけしたにもかかわらず、教育もしていただき感謝しています。当時はインターネットが普及する以前の時代でしたから、急ぎの時はアメリカが朝になる夜中にファックスを送ってさらに電話をしたり…。そんなふうに遅くまで仕事する日々でしたが、毎日のように飲みにも行っていました。なぜそんなに体力があったのか、昔の自分にジェラシーを感じます(笑)。
97年から2002年には台湾に駐在しました。当社が日本国内で製造・販売していた半導体の材料を台湾に輸出することになり、台湾でのハイテク分野の仕事を伸ばしていくことになったのです。駐在したのは、台北から約70km南にあるシリコンバレーを真似て作った街、新竹。32歳の時にそこに台湾事務所を立ち上げたのです。採用した社員も皆若く、台湾の発展と会社の成長が重なり、非常に楽しくやりがいがありました。会社の成長に人の採用の面が追いつかないなど難しさもあることはありましたが、食べ物もおいしいし人もいいし、本当に楽しかったです。台湾から帰ってすぐ生まれた子どもに、新竹から取って「新」という名前を付けたくらいですよ。
5年間の台湾駐在後、日本での勤務を経て、05年にシリコンバレー駐在に。ここでも半導体や液晶関連の仕事をし、07年に日本に帰国してからも電子材料関連の仕事をしていました。その分野は社内外ともに業績が悪く、立ち直るのは大変で、つらい時期でもありました。この時には上司が話を聞いてくれたり、こんな本を読んだらと勧めてくれたりと随分と支えてもらいました。自分で考え、やれることには限界があります。話ができる人がいたことで本当に助けられました。
13年に米国駐在に。ここでは電子材料はほんの一角で、食品や化学品など多様な分野で事業を行っています。米国は人口も増加し続けている大きなマーケットですが、ここで当社ができていることはまだ少しです。ですから例えば食品など内需に関わる部分で当社なりにできることがもっとあるのではないかと考えています。身もふたもない言い方ですが、私は米国が他の国より特別好きなわけではありません。でもここに住み学ばせてもらい、この寛容な国にお世話になっていると感謝しています。微力ですが米国に少しでも貢献したいのです。
それには会社の現地化が一番のテーマです。日本本社の子会社であるだけでなく、現地の人の成長を支援し現地の人がリーダーシップを取る現地の会社になり、米国と共に成長できる会社になることを目指しています。社長として何でも自分が引っ張っていくのでなくて、皆を後ろから押していくことが私の大きな仕事だと考えています。
Inabata America Corporation◎稲畑産業株式会社の子会社として、1978年に設立。情報電子 、化学品、プラスチック、食品などの事業分野で、ビジネスプランニング、マーケティング、製造、物流を行う商社。