2017/4/29
去る4月29日、ダウンタウン地域部会主催による「マンザナール収容所跡慰霊祭・バスツアー」を開催した。このバスツアーは、マンザナール国定史跡(マンザナール強制収容所跡)で開催されている慰霊祭に合わせて、毎年開催されているもの。今年も50名以上が参加し、アメリカにおける日本人・日系人の歴史を学んだ。
全米で最大の日本人街、リトルトーキョーを擁するダウンタウン地域部会は、日系人との関わりが深い。またリトルトーキョー内にはアメリカにおける日系移民・日系人の歴史を展示する全米日系人博物館もある。そうしたことから、ダウンタウン地域部会では毎年、日系人の歴史に触れる「マンザナール収容所跡慰霊祭・バスツアー」を開催しており、今年は4月29日(土)に実施した。
マンザナール収容所とは、第二次世界大戦中にアメリカ国内にあった10の強制収容所の一つであり、ロサンゼルスの日系人・日本人の多くが収容されていた。強制収容は、今からさかのぼること75年前に行われ、西海岸に住んでいた約12万人の日系人・日本人が、国籍のいかんにかかわらず、これらの収容所へと抑留された。マンザナール収容所の跡地は、25年前の1992年に国定史跡に指定。現在は当時の住居であったバラックや食堂などが復元されている。
29日朝、トーランスおよびダウンタウンLAで参加者を乗せたバスは、マンザナール収容所跡へと出発。道中は、ダウンタウン地域部会の今泉さんから、日系人史およびマンザナール収容所についての解説が行われたほか、ドキュメンタリー映像などで、日系人の歴史を学習した。
途中、休憩を挟んで約4時間後、オーエンズバレーにあるマンザナール収容所跡に到着した。到着後すぐとなる正午からは、同地で第48回となるマンザナール巡礼祭が開催された。アル・ムラツチ加州下院議員や山田淳在サンフランシスコ日本国総領事、元収容者らからの挨拶、また1969年に初となるマンザナール巡礼を行いマンザナール収容所跡の国定史跡指定のために奔走したウォーレン・フルタニ元加州下院議員によるスピーチが行われた。さらにこのほか、詩の朗読や音楽ライブ、慰霊塔前での慰霊祭、献花、盆踊りなども行われた。
巡礼祭の後、参加者はおのおの広大な収容所跡地を散策し、復元バラックや共同シャワー・トイレなどを見学。また、入口付近にあるビジターセンターでは、マンザナール収容所での生活や強制収容の歴史についての展示も見学した。
帰路のバスでは、ダウンタウン地域部会長の小林さんが挨拶し、参加者にお礼を述べると共に、「今日感じられたことを考えていただいたり、ご友人に共有していただいたりして、ぜひ後世につなげていってください」と話した。午後8時前、バスはダウンタウンLAを経て無事にトーランスへと帰着した。
参加者の感想をご紹介します。
「マンザナール収容所跡訪問感想」
文:Kintetsu Enterprises Company of America・米澤廣記さん
去る4月29日(土)開催された「マンザナール収容所跡慰霊祭・バスツアー」に参加させていただきました。バスで往復約9時間の移動でしたが、ところどころで道中の名所の説明があるなど、担当の方々の細やかなお心遣いのおかげで非常に快適に過ごすことができました。改めて御礼申し上げます。ありがとうございました。
今年は、1942年のフランクリン・ルーズベルト大統領(当時)による「大統領令9066号」への署名から75周年ということもあってか、慰霊祭に参加される方が例年に比して多くいらっしゃったとのことです。私は、参加者の多さもさることながら、当時収容対象となった日系の方々のみならず、さまざまな人種の方々が集まっておられたことに感銘を受けました。先人方のたゆまぬ努力もあり、この地で起こったことは我々だけでなく、人類が学ばなければいけないものとして認識されていることに、一人の日本人として今日感じたこと、学んだことは風化させてはいけないと強く思いました。
何回か参加されている方にうかがうと、例年とは異なり今年は現地の天候も非常に良かったとのことで、砂漠地帯特有の不便さは体感しきれませんでしたが、施設の見学を通じて、住み慣れた場所から強制的に移動させられた怒りや悲しみ、全てが共同でプライバシーのない生活をいつ終わるとも分からなく続ける苦痛などに思いを馳せました。雪景が美しいシエラネバタ山脈も、逃げることができない上に逃げたところで、どこで何をするんだという絶望感を与えたことでしょう。「苦労」と単純に一言では表現できないものを目の当たりにしたというのが正直な感想です。
時代や環境が袋小路に近づき、閉塞感が出てくると、往々にしてナショナリズムの高まりとそれに伴う排斥運動が取りざたされます。しかし、マンザナール収容所跡に訪問し、歴史を学んだ者としてすべきことは、車中で流されていたDVDで、9・11のアメリカ同時多発テロ事件の時、運輸長官を務めておられたノーマン・ミネタさんがおっしゃっていたお言葉ですが、「何が正しいのかよく考え、正しい行いを揺らぎない自信を持って行うこと」ではないでしょうか。そんなことを帰りのバスの中で車窓を眺めながらぼんやり考えていました。
日系人の歴史の一端を知ることと、その歴史を実際に感じることができた非常に意義深いツアーでした。機会があれば、また参加させていただきたいと思います。
1941年12月7日、日本の真珠湾攻撃により太平洋戦争が開戦。日本人は「敵性外国人」となった(なお当時、日本人を含むアジア人は米国への帰化が禁じられており、移民一世は米国籍を取得することはできなかった)。翌42年には日本軍の本土上陸への恐れ、当時西海岸に蔓延していたアジア人への人種差別感情などから、米国市民である日系人を含め、西海岸に住んでいた約12万人の日系人・日本人は全米10カ所の強制収容所へと送られた。
戦後の82年、連邦政府が設置した「戦時における民間人の転住・抑留に関する委員会」(CWRIC)は調査の結果、強制収容は軍事的必要性に基づくものではなく「人種的偏見、戦時ヒステリー、政治的指導者の失政」によるものだったと結論付けた。88年には、当時のロナルド・レーガン大統領が署名して「市民の自由法」が成立し、米国政府として公式に謝罪し、存命の元収容者に各2万ドルの賠償金の支払いを約束した。
1942年2月19日、当時のフランクリン・ルーズベルト大統領が発令した大統領令。陸軍の長官に、特定地域を軍管理地域に指定する権限を与えた。これにより西海岸の司令官、ジョン・L・ドゥウイット中将は、西海岸を軍管理地域に指定。このエリアに住む日系人・日本人は国籍のいかんにかかわらず立ち退きを余儀なくされ、同年3月末より強制立ち退き・収容が開始された。
ロサンゼルスより約220マイル北のオーエンズバレーに位置。1942年に設置された後、45年に閉鎖されるまで1万1000人以上の日系人・日本人がここに収容された。背後にシエラネバダ山脈がそびえる荒野で、夏は100°F(約38℃)近くになることもあるなど、非常に気候の厳しい土地であった。灼熱の太陽、砂嵐、雪にさらされながら、収容者たちは隙間だらけの急ごしらえの狭いバラックでプライバシーのない共同生活を送った。部屋に水道やトイレなどはなく、食堂、シャワー、トイレは別棟の共用施設で、どんな天候、体調でもそれを利用するよりほかなかった。
復元された食堂。収容者は全員、食堂で食事をとった。
復元されたバラック。壁の隙間から砂が吹き込んだという。
復元された共同トイレ。
復元された監視塔。収容所全体が鉄条網に囲まれていた。